親から子、孫へ。後世に受け継ぐためのエバーブリリアントスチール開発ストーリー

近年、時計界では、高性能ステンレス鋼の導入が進んでいる。2022年、グランドセイコーは耐食性に極めて優れたエバーブリリアントスチールを採用したモデルを発売した。オーバースペックともいえる耐食性が備わる高性能ステンレス鋼は、高級時計にどんなメリットと魅力をもたらすのだろうか?

Photos:Tetsuya Niikura(SIGNO) Styled:Eiji Ishikawa(TRS) Words:Norio Takagi
Produced by HODINKEE

アフターサービスの現場から進んだ、独自の高性能ステンレス開発

1967年に登場した44GSのステンレススティール製の裏蓋

世界最高峰の腕時計を作り出す──そんな情熱を胸にグランドセイコーの開発は進められ、1960年に誕生した。初代から変わらず追求し続けているのは、“正確さ”“美しさ”“見やすさ”。グランドセイコーはこれらを高次元で融合させることで、長く愛用でき、使いやすい高級時計の数々を世に送り出してきた。

 正確さの実現は、高性能なムーブメントが担う。そして美しさと見やすさをかなえるのが、1967年に登場した44GSによって確立された独自のデザインコード“セイコースタイル”である。目指したのは“燦然と輝く腕時計”。そのためにグランドセイコーの外装は、回転する金属盤に押し当てて仕上げるザラツ研磨による歪みのない鏡面を主体とし、筋目を加えることで美しい輝きを創出してきた。

 高級時計の多くは、化学薬品に関連する器具にも使われるほど腐食に強く、加工性にも優れ、美しい研磨仕上げが得られるステンレススティール(SS)を使用している。それゆえ素材としては他社との差別化が難しいため、いくつかのブランドからは、より高性能なSSが登場している。

 代表的なのは、904Lだ。一般的に高級時計の外装素材として使用されてきたSSよりも耐食性に優れ、白い輝きを放つ高性能ステンレス鋼である。近年は904Lの導入に名乗りを上げるブランドがいくつも出ており、さらに904Lとは異なる高性能ステンレス鋼が登場しはじめている。

 「腕時計のアフターサービスの現場では、おそらく人の汗などによってSSの裏蓋が錆び、腐食してしまっているものを見かけることがありました。ステンレスは錆びないと考えている方が少なくありませんが、“錆びない”のではなく“錆びにくい”だけで、扱われる環境によっては SSといえども腐食は免れません。 SSには、まだ開発の余地がある。また近い将来、904Lの安定供給が叶い、多くのブランドが採用しはじめるかもしれない。そうしたなかで、他社よりも1歩先を行く新たな SS素材の開発プロジェクトがスタートしました」

 そう振り返るのは、セイコーウオッチ外装設計技術部の原 康範マネージャーである。そして3年以上の開発期間を経て誕生したのがエバーブリリアントスチールだ。最大の特徴は、極めて優れた耐食性である。孔食指数(こうしょくしすう)が40を超えるステンレス鋼は、鉄鋼業界では“スーパーステンレス”に分類される。エバーブリリアントスチールそのものではないが、そのベースとなったスーパーステンレスは海洋構造物や化学・食品系プラントで使われるほどに高い性能を持ち、既存の腕時計用SSの性能数値を遥かに凌駕する。

 SSの錆びにくさの評価基準のひとつとなるのが、塩化物環境で腐食に抵抗する能力を示す前述の孔食指数だ。これで比較すると、従来のSSが20程度、904Lが35程度であるのに対し、グランドセイコーが採用するエバーブリリアントスチールは40以上もある。

 「グランドセイコーへの導入を決めたポイントは、磨き上げた際に従来のSSと同等以上の美しい輝きを担保できたことです」。名は体を表す。エバーブリリアントスチールは、美しい輝きを錆びから守り長く保てることも大きな特徴となっている。

エバーブリリアントスチールのベースとなった素材は、化学・食品系プラントで使用されるスーパーステンレスに分類される。iStock / Getty Images Plus

強く、そして美しいエバーブリリアントスチール

「新しいSSを導入することが決まってから、多くのスーパーステンレスを調査・評価しました」

 エバーブリリアントスチールの開発にあたり、まず優先したのは耐食性の高さだ。そしてグランドセイコーとしての審美性が担保されることも重要なポイントであった。そもそもスーパーステンレス自体は装飾用途ではないため、審美性は考慮されていない。多少の不純物が混ざっていても、性能基準をクリアしていれば、その用途では構わないのだ。精錬の段階で、グランドセイコーが求める審美性が得られるプロセスを実現可能で、かつ素材を安定供給してくれることは、絶対に譲れない条件であった。

 「904Lもそうですが、高性能ステンレス鋼は鍛造も切削も難しい。ですから加工性のよさも、検討条件でした。どんなに高性能で美しくても、量産できなければ意味がありませんから」

 サンプル材を取り寄せ、実際に加工して審美性と加工性の検討を重ねた。かくして条件に見合うスーパーステンレスにたどり着き、エバーブリリアントスチールは誕生したのである。

グランドセイコーの美の源、ザラツ研磨。SSだけでなく、ゴールドやプラチナ、チタンの外装にも使われ、素材に合わせて加工条件を変える。エバーブリリアントスチールも同様である。

加工性がよい、といってもそれは“スーパーステンレスにしては”であって、実際は従来のSSよりも遥かに鍛造も切削も困難だという。それも既存技術をベースに各工程をひとつひとつ見直し、加工条件を確立させた。もちろん研磨も難しいが、セイコースタイルには欠かせない要素であるため従来の条件を見直し、歪みのない鏡面を実現したのである。しかも前述したようにエバーブリリアントスチールは、従来のSSよりも白く、美しく輝く。特に筋目仕上げにおいては、従来のSSケースと並べて見比べると白さが際立つ。

 エバーブリリアントスチールは、グランドセイコーが誕生以来追求し続けてきたひとつ、美しさをより高め、腕時計の本質のひとつだととらえる“長く愛用できる”ことも、優れた耐食性で実現する。まさにグランドセイコーのあるべき姿にフィットした新素材だといえよう。

エバーブリリアントスチールは、日々使う時計にこそふさわしい

「従来のSSも耐食性に優れますが、それでも長時間肌に触れ続ける裏蓋はまれに腐食する場合があります。長く使っていただくということを考えた場合、耐食性の向上は大きなメリットになります」

 裏蓋の腐食は、時計を外したら拭くという日頃のケアで防げるものの、毎回しっかりとケアするのはなかなか難しい。また汗が塩化しやすい体質の方であれば、時計はより腐食しやすくなる。だが、スーパーステンレスであるエバーブリリアントスチールの耐食性というのは、日常生活で錆びさせることがほぼ不可能なほどの数値を示す。一方、日々のケアを気にすることなく使いやすいこともエバーブリリアントスチールのメリットだろう。この使いやすさも、グランドセイコーが腕時計の本質として捉えるひとつなのだ。

 グランドセイコーは現在、修理可能期間を限定していない。このような時計ブランドはスイスでもまれである。これを実現しているのは、前述したように“長く使える”ということを、グランドセイコーが目指しているからにほかならない。日常生活で錆びることがないエバーブリリアントスチールは、より長い期間、その審美性を担保できる。正確で美しく、見やすい腕時計を末永く使ってもらいたいとの作り手の願いを、エバーブリリアントスチールは叶えてくれるのだ。

親から子、そして孫へ。美しい姿のままに。


従来のSSよりはるかに耐食性に優れたエバーブリリアントスチールだが、硬度に関してはほぼ変わらない。耐傷性はほぼ同レベルで、決して傷が付かないといった類の“ノーメンテナンス”を志向した素材ではない。 SSケースとブレスレットは、軽度の傷であれば多くのブランドが再研磨して消してくれる。さらにグランドセイコーは2021年に外装リペアポリッシュサービスを導入している。これはレーザー溶接機を整備し、再研磨では消えない深い傷も細い線材をレーザーで溶かして埋めることで、SS外装のリペアを実現するというものだ。

 「エバーブリリアントスチールも、私たちが提供している外装リペアポリッシュサービスが受けられます。しかしレーザー溶接で埋められるのは、どの素材であっても傷だけ。腐食で生じた孔(あな)は埋められません」

 腐食が、孔(あな)の周囲のどの範囲にまで及んでいるか、見た目では判断ができないからだ。

 「傷は消せるようになった。だったら腐食を完全に防げれば、腕時計はより長く使い続けていただくことができる存在になる。エバーブリリアントスチールを開発にするにあたり、耐食性を優先したのは、そのためです」

 先々まで修理が可能で外装の傷も消せる。そして日常的な使用ではほぼ腐食しないエバーブリリアントスチールの開発は、決して“ノーメンテナンス”を目指した無味乾燥とした考えから生まれたものではない。あくまでもアフターサービスを前提として生まれたものだ。それはなぜか? グランドセイコーが目指したのは、適切なアフターサービスを通して作り手とオーナーを繋ぎ、そして親から子、そして孫へと美しい姿のまま時代を超えて受け継いでいくことができる最高峰の腕時計だからである。