T0 Story~グランドセイコーの飽くなき挑戦~

T0 CONSTANT FORCE

著:「クロノス日本版」編集長 広田 雅将

写真:T0 CONSTANT FORCE

2020年9月、セイコーウオッチ株式会社はコンセプトモデル「T0(ティー・ゼロ)コンスタントフォース・トゥールビヨン(以下、T0)」を発表した。本作は、ぜんまいの力を一定にするコンスタントフォースを、トゥールビヨンと同軸に備え、かつ一体化された世界初のムーブメントとなる。その目的は、限りなく正確な機械式時計を作り上げること。1960年代に、時計界のF1とも称される天文台コンクールで機械式時計として上位を独占したセイコーは、本作をもって、再び世界の頂点に駆け上がったのである。

機械式時計の終わらぬ課題、ぜんまい

電池を動力源とするクオーツに対して、機械式時計はぜんまいのほどける力で動く。仕組みが完成したのは17世紀後半で、基本的に大きく変わっていない。今なお“骨董品”とも言えるメカニズムが使われているのは、技術の進化が多くの問題を解決したためだ。 こういった進化を象徴するのが、グランドセイコーが載せるムーブメントのひとつであるスプリングドライブだろう。動力源がぜんまいであるにもかかわらず、スプリングドライブはクオーツ時計並みに正確で、磁気や温度変化、衝撃にも極めて強い。技術が進歩した結果、セイコーはかつて実現できなかった機構の製品化に成功した。
また、機械式時計のメカニカルも、技術の進化により、やはり実用性はいっそう高まっている。100年前はもちろん、10年前のものと比べても、別物に進化を遂げた機械式時計。しかし、まだひとつ大きな問題が残されている。それが機械式時計の動力源であるぜんまいだ。
機械式時計に使われるぜんまいは、巻き上げると力が強くなり、ほどけるにしたがって力を落とす。ぜんまいで動くオモチャが、はじめは勢いよく動き、やがて動きを小さくする理由だ。

しかし、ぜんまいで動く機械式時計は理論上、一定のリズムを刻み続ける。理由は、心臓部に「振り子」や「てんぷ」があるため。振り子の原理で動くこれらの部品が、ぜんまいの力が強くても弱くても、機械式時計に一定のリズムをもたらしている。

ただ、これはあくまで理論上の話で、様々な要因により、ぜんまいがほどけると機械式時計の正確さは失われてしまう。もちろん、時計メーカーはぜんまいの問題に手をこまねいていたわけではない。例えば、2020年に発表されたグランドセイコーのキャリバー9SA5。このムーブメントは、ぜんまいがほどける時間が約80時間と長く、心臓部に載せるひげぜんまいの形と取り付け方を工夫している。そのため、かなり長い間、正確さを維持することが可能だ。とはいえ、理想としては、ぜんまいのトルクは、巻き上げた状態とほどける直前を問わず、一定であることが望ましい。

写真:2020年3月に発表された新キャリバー 9SA52020年3月に発表された新キャリバー 9SA5

どうすればぜんまいの力を一定にできるのか?

ぜんまいで動く機械式時計の発明以来、多くの時計師たちやメーカーが、どうすればぜんまいのトルクを一定にできるかを考えてきた。ぜんまいのトルクが一定になれば、機械式時計の正確さはさらに増すはずだ。解決策のひとつが、ぜんまいを収めた香箱に円錐状の滑車を鎖で引かせる、鎖引き装置を意味するフュージだった。設計と製造が上手ければ、フュージは安定したトルクを生む。これは経度を測定するマリンクロノメーターなどに用いられたが、サイズの小さな懐中時計や腕時計には収めるのは難しかった。

フュージに続いて注目されたのが、定力装置を意味する、コンスタントフォースだった。ぜんまいの力を別の小さなばね(定力ばねという)に蓄え、そのばねが元に戻ろうとする力で振り子やてんぷを動かす。しばしば貯水ダムに例えられるこの機構は、トルクを一定にするという点では文句なしに優れたものだった。

時計師たちの果たせぬ夢、コンスタントフォース

コンスタントフォースはフュージに比べてコンパクトで部品点数も少ないため、携帯時計にはうってつけの機構だった。しかし、設計と製造が難しいため、実際の時計に載せるにはハードルが高かった。事実、コンスタントフォースを採用した機械式時計は少なく、腕時計に至っては数えるほどしかなかったのである。理論的には素晴らしいが、実現が極めて困難なコンスタントフォース。多くの時計メーカーや時計師にとって、この機構は「果たせぬ夢」のひとつだったのである。

2020年9月、グランドセイコーは新たな機構を積んだコンセプトモデルを発表した。名称は「T0 コンスタントフォース・トゥールビヨン」。名前が示すとおり、本作は、これまでにない手法でトゥールビヨンとコンスタントフォースを組み合わせた機構を搭載しており、過去に作られた同種の機構の中では最も優れたものと言える。セイコーは、ついに時計師たちの果たせぬ夢を、理論上は完全な形で実現したのである。

写真:T0 コンスタントフォース・トゥールビヨンT0 コンスタントフォース・トゥールビヨン

天文台コンクールで培われたセイコーの伝統

現在グランドセイコーは、機械式時計のベースムーブメントに9S6系、9S8系を使っている。9S5系を改良したこれらのムーブメントは、市場にある量産型ムーブメントのなかで、最も優れた物のひとつと言えるだろう。9S6系の完成を受けて、セイコーインスツル(現セイコーウオッチ)の技術陣は、さらなる新型ムーブメントの開発に取り組んだ。ひとつは量産を前提とした要素技術の深化というアプローチで基本性能革命を目指した9SA5。もうひとつが、いっそうの正確さを探求するため量産にとらわれない複雑機構による高精度化を目指したT0だった。また、T0の開発では、単に高精度を実現するための優れた機構を追い求めるだけでなく、感性価値の創造もテーマに加えられた。

初代グランドセイコーの誕生から4年。後のセイコーインスツルである第二精工舎は、諏訪精工舎(現セイコーエプソン)と共に、「時計界のF1レース」と言われるニューシャテルの天文台コンクールに参加した。これは時計の正確さを競う競技で、当時はスイスの一流メーカーの独擅場だった。年を追うごとに両社の成績は伸び、66年には企業シリーズ賞で3位を獲得(諏訪精工舎は6位)。67年には2位(同3位)となった。クオーツで世界を制したセイコーは、実のところ、1960年代後半には、機械式時計の正確さでも世界最高水準にあった。

  • 写真:諏訪精工舎が天文台クロノメーター・コンクール用に開発した専用ムーブメント諏訪精工舎が天文台クロノメーター・コンクール用に
    開発した専用ムーブメント
  • 写真:第二精工舎が天文台クロノメーター・コンクール用に開発した専用ムーブメント第二精工舎が天文台クロノメーター・コンクール用に
    開発した専用ムーブメント

その後、第二精工舎は機械式時計の開発を中断するが、正確な時計作りの伝統は残されていた。98年にはグランドセイコーで機械式のメカニカルが復活。これは、時計の心臓部であるひげぜんまいに、天文台で培った技術を搭載したものだった。そして2006年。より長い駆動時間と高い耐磁性を持つ9S6系で、グランドセイコーの機械式時計は、世界の第一線に復帰したのである。

かつて天文台コンクールを席巻し、後に9Sを完成させたセイコーの技術力。これを使って世界最高レベルの時計を作れないのか。そう考えたセイコーインスツル(現セイコーウオッチ)の川内谷卓磨(かわうちや・たくま)は、バックヤードで研究を進めた。セイコーの技術力があれば、トゥールビヨンの開発は難しくない。川内谷はさらに、時計師たちの果たせぬ夢である、コンスタントフォースを載せようと考えたのである。

写真:セイコーウオッチ 川内谷 卓磨セイコーウオッチ 川内谷 卓磨

世界初、同軸コンスタントフォース・トゥールビヨン

コンスタントフォースは、ぜんまいから近いところに置かれた場合は、ぜんまいのほどける力を制御しやすい。反面、てんぷから遠ざかるため、効率は下がり、トルクは均一でなくなってしまう。
一方、コンスタントフォースが心臓部であるてんぷの近くに置かれた場合は、てんぷに均一なエネルギーを届けやすい。しかし、てんぷに近づけば近づくほど小さいトルクで機構を作動させなければならないため、安定して作動させるのが難しくなる。

川内谷が目指したのは、コンスタントフォースを心臓部であるてんぷに限りなく近づけつつ、なおかつ安定して機構を作動させる仕組みだった。前述の通り、この二つの要素はトレードオフの関係にあり、両立させるのが極めて難しい。

心臓部であるてんぷを回転させると、理論上は重力の影響をキャンセルできる。これがトゥールビヨンの基本的な考え方だ。川内谷は、そのトゥールビヨンの下に、コンスタントフォースを噛ませようと考えた。普通のトゥールビヨンは、1分間に1回転する四番車にてんぷや脱進機といった心臓部を乗せてユニット化し(このユニットをキャリッジと呼ぶ)、キャリッジごと回転させるものだ。そこにコンスタントフォースを加える場合、キャリッジから離れた場所に置くのが一般的だ。対してT0のコンスタントフォースは、キャリッジと同軸に置いた歯車のトルクを定力ばねにため、そのほどけるエネルギーで、てんぷだけでなく、キャリッジ自体を回転させるというものだった。

力を増やし、抵抗を減らすこと

川内谷は様々なコンスタントフォースを研究。理想的な機構を実現するために、ぜんまいのトルクを強めつつ、抵抗を極力減らそうと考えた。その一例が、ふたつのぜんまいを載せたツインバレルである。ぜんまいを直列に繋ぐと、駆動時間は延びる。対して並列に繋ぐと、力は倍になる。コンスタントフォースを安定して駆動するため、セイコーは初めて、並列で繋いだぜんまいを採用したのである。

抵抗も大きく減らされた。ツインバレルが生み出す大きなトルクに耐えるため、ぜんまいに近い二番車と三番車には摩擦を下げる特殊なコーティングが施された。また、ぜんまいの力を蓄えて一定の周期で開放するコンスタントフォースでは、鍵となるストップ車に高い耐久性と摩擦抵抗を小さくすることが求められる。これらの課題に対して川内谷は、このストップ車に、精密なセラミックス製の歯車を与えたのである。その加工精度は1000分の数ミリ。結果、このコンスタントフォースはストップ車が摩耗することなく1秒ごとに確実に作動するようになった。

歯車も別物になった。一般的に機械式時計は、歯車を削り出して作っている。歯形が精密になり、ぜんまいの動力伝達ムラが起こりにくいためだ。対して川内谷は、さらなる正確さを求めて、すべての歯車をMEMS(Micro Electro Mechanical Systems)という製法で製作した。これは、半導体の製造で用いられる精密な成形技術だ。めっきのように金属の膜を重ねることで、ミクロン単位のほぼ完全な歯形を得られる。すでにセイコーはこの技術をグランドセイコーに用いているが、歯車すべてに採用したのは、T0が初めてだ。

さらなる正確さに向けた改良

T0を開発するにあたって、成熟の域にある9S65をベースにすることは当然の選択だった。T0では、時計の性能を支える要であるぜんまい、輪列、脱進機、てんぷといった主要部品は、基本的に9S65の設計が踏襲されている。ぜんまいを収める香箱などは、9S65のものがほぼそのまま用いられた。時計の操作感を司るおしどり、かんぬきなどの設計もまた然りだ。

写真:T0開発のベースとなったキャリバー9S65T0開発のベースとなったキャリバー9S65

しかしながら、川内谷はいっそう正確に時を刻むためのさらなる改良を加えた。ひとつが、緩急針のないフリースプラングてんぷの採用だ。多くの機械式時計は、心臓部に使われるひげぜんまいの長さを緩急針で強制的に変えることで、時計の遅れ進みを調整する。振り子時計の振り子の長さを調節することで時計の遅れ進みを調整するのと同じ理屈だ。しかし、この仕組みは衝撃に弱く、ぜんまいがほどけた際に時間が狂いがちだ。ぜんまいがほどけても正確である機構を盛り込んでいる時計も多くあるが、理論上は緩急針のない方が好ましい。

そこで川内谷は、緩急針を持たない、フリースプラングてんぷを採用した。これはひげぜんまいの長さを変えるのではなく、心臓部であるてんぷの慣性を変えることで遅れ進みを調整する機構のこと。緩急針タイプに比べて設計と製造の難易度は上がるが、衝撃に強く、長期的に安定した精度を維持しやすい。

そもそもこの技術は、基本性能革命を目指した9SA5向けに研究中のものだった。そこで川内谷は、この機構を9SA5に先駆けてT0で試そうと考えた。

もうひとつの特徴が、高振動である。心臓部であるてんぷは動きが速いほど正確さが増す。早く回るコマが、ショックを与えても倒れにくいのと同じ理屈だ。セイコーは1960年代から高振動化の技術を推し進め、1960年代後半には天文台コンクールを制することとなった。その伝統は今なお続いており、2020年発表の9SA5は、3万6000振動/時という高い振動数を持っている。

この思想はT0にも受け継がれた。T0のてんぷの振動数は、メカニカルの9S6系に同じ、2万8800振動/時。普通、コンスタントフォースを搭載すると、これほど高い振動数を与えるのは難しい。コンスタントフォースがぜんまいのエネルギーを一定量に制限してしまうためだ。しかし、ふたつのぜんまいを載せ、機構の抵抗を極限まで減らした結果、T0はコンスタントフォース搭載機としては歴史上最も高い振動数を実現したのである。しかも、心臓部であるてんぷを大きくしたままに、だ。

試作機による測定では、トゥールビヨンによって重力の影響は従来品の10分の1以下に抑えられている上、コンスタントフォースによってその高精度が50時間にわたって安定的に持続するという。高振動とフリースプラングによって、携帯時の精度も相当に高くなるはずだ。
コンスタントフォースにトゥールビヨン、高振動のフリースプラングてんぷを持つT0は、理論上の正確さを実機でも裏付けたのである。

50年前の設計を生かした再起動の仕組み

では、これほど正確なトゥールビヨンであれば、時間を合わせる際に秒単位でセッティングしたくなる。しかし、心臓部を強制的に回転させるトゥールビヨンに、時計を止める機能を加えるのは難しい。というのも、普通は機械式時計を止める場合、心臓であるてんぷにレバーを直接当てる。しかし、トゥールビヨンはてんぷを含む心臓部をキャリッジに納めて回転させているため、直接てんぷにレバーを当てられないのである。そこで川内谷は、てんぷではなくキャリッジごと止める仕組みを採用した。

キャリッジを止めるトゥールビヨンはほかにもある。しかし、T0の仕組みは別物だ。通常、時計の振動数が上がるほど、その再起動は難しくなる。2万8800振動/時であることに加えて、コンスタントフォースを搭載する大型のキャリッジを持つT0は、一度止めたら再び動かすことが難しいだろう。そこでT0は、キャリッジを止めるレバーが外れる際に、キャリッジを逆方向に蹴ることで、再起動を容易にした(特許出願中)。これは、セイコーが1964年の東京オリンピック向けストップウオッチに採用した仕組みにまったく同じだ。その後、この機構はグランドセイコーの伝説的な高精度ムーブメント、キャリバー45にも使用されている。T0の設計に際しては、このキャリバー45の設計も参考にされた。

写真:姿勢差、外乱などの影響に対してもより安定した高精度を実現したキャリバー4520 (1968年)姿勢差、外乱などの影響に対してもより安定した高精度を実現したキャリバー4520 (1968年)

感性価値のための仕上げと音

世界で初めて、完全な同軸で一体化されたコンスタントフォース・トゥールビヨンを完成させた川内谷。セイコーはこの大作の歴史的価値をいっそう高めようと考えた。ムーブメントの土台である地板、屋根にあたる受はもちろん、ムーブメントのあらゆる部品は、3ヵ月以上かけて手作業で磨かれたのである。その仕上がりは、スイス製の超高級時計に比肩する。こういったノウハウは、2020年の9SA5にも生かされた。

写真:美しく磨き上げられたT0を構成する部品たち美しく磨き上げられたT0を構成する部品たち

また、T0はその刻音に大きな特徴がある。2万8800振動/時の振動数を持つ時計は、脱進機が1秒間に8回、チクタクという音を鳴らす。T0では、ここにコンスタントフォースが発する衝撃音が1秒周期で加わるため、まるで音楽の16ビートのような刻音を発するのだ。しかしながら、コンスタントフォースがぜんまいのトルクを開放するタイミングを正確に1秒周期にするためには、非常に高度な加工精度が求められる。川内谷は、この加工精度を音として知覚できるようにしたいと考えた。T0のコンスタントフォースは、1000分の数ミリ単位で加工されたセラミックス製のストップ車に加えて、その作動のタイミングを微調整する機構をも備えることで、完全な16ビートの刻音を実現しているのである。

機械式時計としての極限の正確さを、音でも示す。機械式でもクオーツでも正確さを追求してきたセイコーは、この新たな試みを見事に成功させたのである。開発目標であった「感性価値の創造」には、美しい仕上げだけでなく、音も含まれていたのである。

T0が示すのは、グランドセイコーの未来である

時計界のF1とも称された天文台コンクールを制したセイコーは、その技術をグランドセイコーに投じて、メカニカルの精度を上げ続けた。それから約半世紀。セイコーは、日本の時計史上、最も野心的な時計である「T0 コンスタントフォース・トゥールビヨン」を完成させた。世界を見渡しても、完全な同軸上で一体化されたコンスタントフォースを持つトゥールビヨンは本作以外に存在しない。1960年代の天文台コンクールに、セイコーほどの高振動機を投じたメーカーがなかったように、である。

T0はあくまでプロトタイプ、とセイコーは説明する。しかし、天文台コンクールの技術が、グランドセイコーの性能を大きく高めたように、T0の技術や仕上げは、9SA5をいっそう熟成させた。T0が示すのは、セイコーの非凡な技術力だけではない、グランドセイコーの来たるべき未来そのものだろう。

写真:T0 CONSTANT FORCE

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