藤枝 久(Grand Seiko キャリバー9SA5設計士)

力強い鼓動を刻む
グランドセイコーの新たな大地
史上最高の
機械式ムーブメント

Mechanical Hi-Beat 36000
80 HoursCaliber 9SA5

The spirit of TAKUMI

ブランド誕生60周年の節目である2020年、先端技術と匠の技の融合によって生まれた9Sメカニカルムーブメントは、かつてない進化を遂げ、グランドセイコー史上最高といえるキャリバー9SA5が誕生しました。10振動ムーブメントにして80時間の連続駆動を実現しながら、「快適な使い心地と上質な感性価値を高次元で両立する」という機械式時計における理想形を実現した新生ムーブメントの外観には、ブランドの美学を上質な感性価値へと昇華させた、美しい仕上げが施されています。

「目指したのは、高精度と長時間持続を実現すると共に、機械式時計の究極の理想形を実現し、革新を起こすこと」―キャリバー9SA5のムーブメント設計を手がけた藤枝久は、開発にかけた想いをこう話します。着想から実に9年、日本の美意識をもって腕時計の本質を果てしなく追求するブランドの新たな大地である至高のムーブメントは、いかにして生まれたのか。その誕生までの軌跡を辿りました。

写真:Caliber 9SA5
Mechanical
Hi-Beat 36000
80 Hours
Caliber 9SA5

キャリバー9SA5、その誕生の舞台裏

キャリバー9S65に搭載するための新しいひげぜんまいの設計をはじめ、キャリバー9S85、キャリバー9S86など、グランドセイコーの機械式ムーブメントの設計を次々に手がけてきた藤枝は、こう話します。

「キャリバー9S85を開発した2009年ごろから、さらに進化させたい、革新していきたいという想いがありました。私たちのなかには、第二精工舎時代から続く、常に時代に先駆けた技術開発や機構開発を目指す設計思想があり、『グランドセイコーらしい』新たな機械式ムーブメントを実現するために必要な要素は何なのかと、常に考え続けていました。」

行動を起こすきっかけになったのは、1968年発売の手巻10振動モデル「45GS」に搭載されたムーブメント、キャリバー4520の図面を見返していた時のことでした。

「キャリバー4520は、当時のムーブメントとしては、設計的に特殊な輪列の構造を取っています。先人たちもこれまでの設計を踏襲していただけでない、ということに気づき、グランドセイコーの機械式時計には、独自のデザイン哲学に基づいた先駆性が求められていると感じていました。この図面を見た時、その想いが確信に変わったと同時に具体的な行動を起こすべく、背中を押してもらえる機会となりました」

ブランド誕生以来、実用性と高精度を果てしなく追求しながら、品格ある美しさを備えた腕時計を作り上げてきたグランドセイコー。「その本質を機械式時計で、いかに革新し実現させるか」これを成し遂げるための第一歩として、藤枝をはじめとする時計設計部のメンバーは、予備的な調査から着手しました。2009年から2011年は、主にムーブメントの要素技術にフォーカスしていきました。「これは、基礎的な研究の方向性を考えるうえで重要だった」と話します。時を同じくして藤枝は、ありとあらゆるムーブメントの設計構造や高級腕時計の外装などについて、独自の研究・分析を並行して進める中、「機能を成り立たせるための設計はもちろんのこと、外観を含め、ムーブメントとしての完成度をより一層強く意識するようになった」と言います。そして2015年以降、ムーブメント全体や腕時計としてのつけ心地といった部分の開発に取りかかっていきました。

「じっくりと時間をかけて、基礎的な要素を固めていきました。その間、予想外にうまくいったこともあれば、失敗も多くありましたが、この助走期間での積み重ねがあったからこそ、我々が目指すべき究極の理想形に到達することができました。そして、このムーブメントを必ず実現させるという強い意思と情熱を共有し、ともに立ち向かってくれた時計設計部のメンバーたちの不断の努力と支えがあってこそ、満を持して、ブランド60周年という記念すべき2020年に、完成させることができました」

「デュアルインパルス脱進機」と「ツインバレル」の連動によってさらなる進化を遂げた10振動ムーブメント

キャリバー9SA5は、毎時36,000振動するハイビートムーブメントの精度をもちながら、ハードルが高いとされてきた長時間持続との両立を実現しています。これを可能にしたのは、動力をてんぷに伝える伝達効率を飛躍的に高めた「デュアルインパルス脱進機」と、香箱を2つ並列に搭載することで、動力ぜんまいのエネルギーを十分に長時間確保できる「ツインバレル」。この2つの連動によって、精度の安定性とキャリバー9S8系の最大55時間を超える80時間の連続駆動を実現し、さらなる進化を遂げた10振動ムーブメントが完成しました。

中でも、藤枝がとりわけ力を注ぎ開発したのが、デュアルインパルス脱進機。がんぎ車とアンクルで構成される脱進機は、てんぷと共に機械式時計の精度を司る重要なパーツです。従来の9Sメカニカルムーブメントに搭載されている脱進機が、がんぎ車からアンクルを経由して、てんぷに力を伝える「間接衝撃」の往復運動であるのに対し、キャリバー9SA5に搭載したデュアルインパルス脱進機は、往復運動の片道を間接衝撃とし、もう片道は、アンクルを介さず、がんぎ車から直接てんぷに力を伝える「直接衝撃」とすることで、動力ぜんまいの力をより高効率で、てんぷに伝達できる構造になっています。

写真:Caliber 9SA5ツインバレル

「2011年ごろから、精密で軽量な部品を作ることのできるMEMS技術を活かした新しい脱進機の設計手法の開発に乗り出し、2年ほどかけてシステムの構築や実験検証を重ね、安定した動作を保証する独自の設計手法を確立しました。その後、新しい脱進機の開発をスタートさせます。数種類の新しい脱進機の設計を行い、がんぎ車の歯数の違いなど、さまざまな条件で解析や試作を繰り返す中、従来の脱進機よりも、脱進機効率をさらに高めることが可能な構造を見出しました。それが、がんぎ車からてんぷに直接力を伝達する直接衝撃と従来の間接衝撃の組み合わせを、シンプルな構造で実現した新型脱進機です。てんぷへの直接衝撃を可能にしながら、がんぎ車の歯を1層にしていることで、がんぎ車の慣性モーメントを抑えられ、アンクルの爪石もこれまでの9Sムーブメントと同じ2つと、簡潔な構造となっています。この簡潔さにより全体が軽量化され、キャリバー9S8系から約20%もの効率向上を可能としました。この機構だからこそ、10振動ムーブメントで長時間持続を実現することができたといっても過言ではありません」

一般に、てんぷの振動数が上がれば上がるほど、もしくは、がんぎ車とアンクルが重くなるほど、がんぎ車とアンクルはてんぷに追いつききれず、伝達する力はおのずと小さくなるため、伝達効率は下がるとされています。しかし、キャリバー9SA5では、精密で軽量なパーツを作ることを可能したMEMS技術で作られたがんぎ車とアンクルによって、高効率と安定した動作の両立を実現しました。

また、ツインバレルによって、大型てんぷを安定して動かすだけのエネルギーを確保したことから、従来に比べて慣性モーメントの大きいてんぷを搭載し、より安定した精度を実現しています。ツインバレルに加え、香箱に対して平面的に歯車が重ならないよう、輪列構造そのものにも工夫が凝らされています。部品を余すところなく配置しエネルギーを最大化させながら、より安定した精度を誇る10振動ムーブメントを実現しています。

写真:Caliber 9SA5デュアルインパルス脱進機

グランドセイコー独自の「巻上ひげ」と「グランドセイコーフリースプラング」はこうして実現した

キャリバー9SA5では、機械式時計の精度を司るひげぜんまいにも、かつてない創意工夫が凝らされています。新しいムーブメントを作り上げるにあたって、ひげぜんまいの形状から精度を予測できる新たな解析技術を確立し、8万通りを超えるひげぜんまいの形状の中から、最も理想的な形状を模索した結果、グランドセイコー独自の「巻上ひげ」の形状を導き出すことができました。

この開発にあたって、藤枝が最初に着手したのは、ひげぜんまいの形状から精度を精密に予測できる解析手法を構築することでした。

「理想的なひげぜんまいの形状を探そうとしても、それまでに使われていた理論では、ひげぜんまいの細かな形状の影響をまったく予測することができませんでした。それから2年間、試行錯誤を繰り返した末、ひげぜんまいの形状から精度を予測する新たな解析技術を確立することができました。これによって、理想的なひげぜんまいの形状を探すための本格的な取り組みをスタートしました」

写真:藤枝 久

さらに藤枝は、続けてこう話します。

「解析とは、ひとつの対象に対してひとつの答えが導き出されます。全体の傾向を把握し、その中から最適解を導き出すためには、ある程度の数を広範囲に探索しながら、絞り込んでいく作業が不可欠です。優れた精度を備えた最適なひげぜんまいの形状を探るために、巻上形状でないものも含め、ありとあらゆる形状を解析していく中で、独自の巻上ひげの形状にたどり着きました。キャリバー9SA5には、時計の進み遅れを調整する緩急針のない、フリースプラング方式を採用しています。フリースプラングは、緩急針のない構造であることから、落下などの衝撃によっても精度が狂いづらく堅牢性が向上します。その一方、ひげぜんまいとひげ棒のすき間を変えることで、等時性を調整できる緩急針を取り払ったことで、等時性調整が難しくなるという課題が生じましたが、精度に優れるひげぜんまいの形状を探すために解析を重ねる中で、特定の条件において、ひげぜんまいの末端を固定するひげ持ちを回転すると、等時性が変化するという法則を見出しました。この法則を応用した機構を搭載することで、緩急針を持たないフリースプラングでありながら、等時性の調整が可能となりました」

写真:Caliber 9SA5グランドセイコーフリースプラング

独自の巻上ひげとフリースプラングを採用するにあたって、部品製造や組立・精度調整の難しさといった課題がありましたが、ひげぜんまいの外端部分の成形や、てん輪の慣性モーメントの調節に必要な特殊治具を、選任の技術者が新たに開発するなど、これまでに培ってきた高度な製造技術と、グランドセイコースタジオ 雫石の時計職人たちの卓越した組立調整技術によって、実現させています。

写真:Caliber 9SA5

「快適な使い心地」の肝は、薄型化と重心位置

キャリバー9SA5について、もうひとつ特筆すべきは、実用性をさらに高めた「瞬間日送り機構」など、数々の新機軸を搭載しながら、キャリバー9S85と比べて約1mmの薄型化を実現したことです。ムーブメントの薄型化によって、腕時計として完成した時の厚さを抑え、より腕になじむつけ心地を実現しています。さらに藤枝はこれまで以上の腕なじみの良さを追求し、「りゅうずの位置」も工夫しました。

「りゅうずの位置をどこに置くかで、腕時計としての重心位置が変わってきます。重心位置が腕に近ければ近いほど、より安定した装着感を得ることが可能になります。キャリバー9SA5では、当初から今まで以上の腕なじみの良さを実現することを念頭に置きながら設計を行いました。りゅうずの最適な位置を探るために、ムーブメントの底面からりゅうずの中心までの距離を数値化したところ、腕時計全体の厚さに対して、裏ぶた側から45~50%くらいの距離が、より快適な装着感を得られる、最適な位置であることが分かりました。りゅうずの位置を可能なかぎり、裏ぶた側へ寄せることで、腕時計としての重心位置を下げ、より安定感のある腕なじみを実現しました」

写真:藤枝 久

ムーブメントの厚さは、腕時計全体の厚さに影響を与えるものであるため、デザイン面での制約につながることも否めません。しかし、このムーブメントの誕生によって、腕時計の外装面においてもデザインのバリエーションを格段に広げることが可能になります。

さらに、キャリバー9SA5では、りゅうずの巻き心地にも趣向が凝らされています。巻き上げる時の手巻時計のような適度なクリック感を備えています。

「この巻き心地を実現するために、MEMSを応用した枠つきうず巻き型の揺動ばねを新たに開発しました。それを巻上機構に採用することで、手巻時計のような巻き心地を備えた自動巻ムーブメントに仕上がっています

雫石の情景に着想を得た、雅趣に富むムーブメントの造形と仕上げ

キャリバー9SA5では、グランドセイコーが到達した機械式時計の理想形を実現するべく、ムーブメントの外観の美しさにも趣向が余すことなく凝らされています。最たる特徴は、グランドセイコースタジオ 雫石が拠点をかまえる岩手県雫石の自然の情景に着想を得た「受け」のデザイン。岩手山や雫石川のゆるやかな川の流れをムーブメントの外観に映し出すべく、曲線を多用し、温かみのある流線形の意匠がとり入れられています。

写真:雫石川

「目指したのは、腕時計をつける人の感性に触れてやまない、グランドセイコーらしい工芸的な外観をもたせることです。設計の構想段階からデザイナーに参画してもらい、部品をいかに美しくレイアウトするかということに力を注ぎました。最も苦心した部分は、多数の部品を薄く密集させながら、フラットな受けに収めることでした。受けがフラットになったことで、回転錘と受けのすき間が詰まり、精緻さを備えた外観に仕上げることができました」

このムーブメントには、日本の美意識を原点とするグランドセイコーらしい輝きを与えるべく、細やかな配慮がなされています。藤枝が気を配ったのは、全体として柔らかい光で構成すること。障子などを透すことによって柔らかさを帯びる光、その光と隣り合う穏やかな影の趣は、日本らしい美しさの象徴といえるものです。キャリバー9SA5では、ムーブメント側面に梨地加工を施し、あえて光を抑えながら、受けの稜線や端面、穴のまわりにダイヤカットを施すことで、見る角度によって、キラキラと輝く多彩な表情が生まれ、これまでにはないメリハリのきいた輝きをもっています。また、受けの分割幅を広くとることで、強い影が生まれるのを防ぎ、光と影が生み出すグラデーションに深みを与える効果をもたらしています。

写真:Caliber 9SA5

さらに、受けの表面には、雫石川のさざ波をイメージしたなだらかな波目模様、歯車の表面には、その一枚ずつに繊細な模様仕上げを施し、妥協のないブランドの美学を細部にわたって体現することで、グランドセイコーらしい気品ある趣が完成しました。「設計、部品の製造、組立調整、仕上げといった時計づくりのあらゆる工程において、見えないところも、決しておろそかにせず、ひとつずつに丹念に手をかけること。そうして手をかけることは、高精度や実用性を実現することや腕時計の美しさを追求することと同様に、ひとつの価値となります。その価値はやがて、腕時計をつける人から、また別の人へと、時を超えて伝わっていく、そう信じてこれからも邁進していく所存です」

藤枝をはじめとする才器ある技術者たちの飽くなき探究心と挑戦によって、実を結んだキャリバー9SA5。グランドセイコーの機械式ムーブメントの頂点に立つ新ムーブメントは、「道」を究めるべく、たゆまぬ進化を続けるブランドと共に、時代のうねりとなりながら、次なる60年に向かって、力強い鼓動を刻んでいきます。

写真:Caliber 9SA5

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