Caliber Stories
Produced by chronos for Grand Seiko

2022.01.28.FRI

異次元の性能を手に入れた新世代スプリングドライブの革新性を見る 
Vol.2

キャリバー9RA2はいかにして高精度化と長持続化を成し遂げたのか?

キャリバー9RA2

動力ぜんまいで動く機械式腕時計と、電池で動くクオーツ式腕時計。そのふたつのいわば「いいとこ取り」が、グランドセイコーが搭載するスプリングドライブである。2021年発表の新しい自動巻スプリングドライブムーブメント「キャリバー9RA2」は、現時点におけるその集大成だ。徹底して動力のロスを減らすことで、今までのスプリングドライブをはるかに超える高性能を実現したものである。

  • 三田村 優:写真
  • Photographs by Yu Mitamura
  • 広田雅将(『クロノス日本版』編集長):取材・文
  • Text by Masayuki Hirota (Editor-in-Chief of Chronos Japan Edition)
キャリバー9RA2

左は、2021年に発表されたグランドセイコーの最新ムーブメント、キャリバー9RA2。約5日間もの長い持続時間とより高い精度を持つ、新世代の自動巻スプリングドライブである。今までのスプリングドライブ以上に電気的・機械的なエネルギーロスを抑えている。2020年発表のキャリバー9RA5同様、大幅な性能改善を果たしたキャリバー9RA2は、グランドセイコーの新しいフラッグシップムーブメントとなる。右は、そのキャリバー9RA2を搭載した最新モデルである、通称“白樺ダイヤル”こと「Evolution 9 Collection SLGA009」だ。

まずスプリングドライブを知ろう

スプリングドライブの機構図

スプリングドライブの機構図。回転錘の回転運動で動力ぜんまいを巻き上げ、そのほどける力で時・分・秒を回すのは機械式時計に同じ。しかし、そのほどける力をローターからコイルの巻かれたステーターへ伝えることで電気エネルギーに置き換え、水晶振動子を振動させ、かつICを駆動している。ICは水晶振動子の正確な振動数とローターの回転速度を比べ、電磁ブレーキを掛けてローターを一定の速度に保っている。スプリングドライブの針がなめらかに動く理由だ。このシステム全体をトライシンクロレギュレーターと呼ぶ。

普通の機械式腕時計は、動力ぜんまいのほどける力で時・分・秒針を回し、さらに脱進機という部品でその回転運動を左右の振幅運動に換え、柱時計の振り子にあたるてんぷという調速機を左右に振動させて、時計を一定のスピードで動かしている。対して、グランドセイコーが搭載するスプリングドライブは、機械式腕時計に同じく、動力ぜんまいのほどける力で時・分・秒針を動かしている。しかし、その力で発電し、その電力で、てんぷではなく水晶振動子(クオーツ)を振動させて、時計を一定のスピードで動かす点が異なる。つまり、機械式腕時計とクオーツ式腕時計のハイブリッドが、スプリングドライブと言えるのだ。

スプリングドライブのメリットは大きくふたつある。ひとつは、いわゆる振り子にあたるてんぷがないため、強いショックを受けても精度に誤差が生じにくいこと。もうひとつは、動力ぜんまいの力でてんぷを左右に動かすのではなく、発電した電力で水晶振動子を振動させるため、精度がより正確になることだ。理論上は、てんぷや水晶振動子の振動が速くなるほど、精度の正確さは増す。一般的な機械式腕時計のてんぷの振動数が1秒間に3~5Hzなのに対し、水晶振動子のそれは32,768Hzと桁違いである。スプリングドライブを載せたグランドセイコーが、日差ではなく、月差±15秒、つまり1日ではなく1カ月に±15秒以内の誤差しか生じない大きな理由だ。

動力ぜんまいのほどける力で発電し、水晶振動子を振動させるというアイデアを形にしたのが、セイコー独自の「トライシンクロレギュレーター」だ。これは、機械式時計が持つ脱進機とてんぷを、調速用のローターと水晶振動子、そして振動を制御するICに置き換えたもの。不安定な動力ぜんまいの力を一定の電力に換えて、水晶振動子を振動させるには、機械だけでなく、電気もマスターしなければならない。そのため、理論上は非常に優れたメカニズムにもかかわらず、機械式時計とクオーツ式時計のいずれも長年にわたって研究開発してきた、セイコーエプソンにしか量産できない。

もっとも、極めて小さな消費電力でICと水晶振動子を駆動させるスプリングドライブには、さらに電力を消費する付加機能は加えられないと考えられていた。そんな常識を覆したのが、新しいキャリバー9RA5とキャリバー9RA2である。

スプリングドライブの最進化形――高精度真空パッケージICを解き明かす

キャリバー9R6系 SOI-IC+水晶振動子


キャリバー9R6系
SOI-IC+水晶振動子

ほとんどのグランドセイコースプリングドライブが載せるムーブメントが、2004年発表のキャリバー9R6系である。精度を司る水晶振動子(クオーツ)と、9Fクオーツムーブメントから転用された消費電力ロスの小さなSOI-ICを大きなプレートに固定している。

キャリバー9RA2 真空パッケージIC


キャリバー9RA2
真空パッケージIC

水晶振動子(クオーツ)とICの消費電力ロスを減らし、温度変化の影響を受けにくくしたのが、キャリバー9RA2が採用する「真空パッケージIC」だ。水晶振動子とICの距離を縮め、さらに真空のパッケージに収めている。外部の影響をほとんど受けないため、ムーブメントを組み込んだ後、外部から遅れ・進みを調整する必要がなくなった。

グランドセイコーのクオーツモデルが採用するムーブメント、9Fクオーツは、月差ではなく、年差±10秒という並外れた精度を誇る。普通のクオーツムーブメントの月差±15秒に比べてはるかに正確な理由のひとつが、ICに温度補正機能を加えたことだ。電力で振動する水晶振動子は、実は温度の変化に弱い。そのため、機械式時計よりもはるかに正確なクオーツ式時計といえども、理論上は年単位の正確さを得にくい。対して9Fクオーツは、水晶振動子の振動を制御するICに温度補正機能を加えることで、温度の影響を抑えることに成功した。月差ではなく、年差の精度を実現できた理由である。しかし、ICに新たな機能を加えると、消費電力がさらに増えてしまう。大容量のバッテリーで動く9Fクオーツなら可能だが、小さな発電量しかないスプリングドライブのICに、温度補正機能を載せることは不可能だと思われていた。開発した平谷栄一はこう語る。

「9Fクオーツに比べて、スプリングドライブの駆動電圧は2分の1、消費電流も3分の1しかないんです。発電量がかなり小さいため、スプリングドライブのICに温度補正機能を加えるのは難しかったですね。しかし、回路全体を省電力化し、さらに『真空パッケージIC』を採用することで可能になりました」。ちなみに9Fクオーツは、1日に540回も温度を検知して、水晶振動子の温度補正を行う。補正の回数を減らせば、スプリングドライブに載せることが可能だったはずだが、あえて回数は減らさなかったと平谷は語る。

組み立て途中のキャリバー9RA2

組み立て途中のキャリバー9RA2。スプリングドライブムーブメントの四角い部品が、キャリバー9RA2に優れた精度をもたらした真空パッケージICである。あえてその存在を強調するため、完成したムーブメントからも一部が見えるようになっている。

今までのスプリングドライブは、調速を担う水晶振動子と、それを制御するICが離れた場所にあった。そのため、温度変化の影響を受けやすかった。キャリバー9RA系の開発にあたり、スプリングドライブの開発チームは、消費電力のロスを減らし、温度変化を受けにくくするために、水晶振動子とICの距離を縮め、それをひとつの真空パッケージ内にまとめてしまったのである。それが新しい「真空パッケージIC」だ。20年以上に及ぶスプリングドライブ開発の歴史は、かつてない省電力化と、スプリングドライブの飛躍的な性能向上をもたらしたのである。

平谷栄一

キャリバー9RA2と、その前身であるキャリバー9RA5を完成させたのが、セイコーエプソン(株) グランドセイコー9RA系の開発設計リーダーの平谷栄一だ。2004年発表のキャリバー9R6系の開発に携わった彼が、新しいキャリバー9RA系の設計を総括した。新しいキャリバー9RA系の開発に際して、彼は「今後、数十年はスペック的に見劣りなく使えるムーブメントであること」という目標を立てた。

キャリバー9RA2が約5日間のパワーリザーブを採用した理由と、それをかなえたノウハウ

組み立て途中のキャリバー9RA2

組み立て中のキャリバー9RA2。トライシンクロレギュレーターと時計を動かすふたつの動力ぜんまいを収めたデュアルサイズバレル、そして動力ぜんまいのほどける力を伝える歯車を組み込んでいる。動力ぜんまいを収めるふたつの香箱の大きさを変えることで、ムーブメントの無駄なスペースがなくなった。

キャリバー9RA系ムーブメントは、約5日間もの長い駆動時間を誇る。平谷は語る。

「2004年に完成させた9R6系は、パワーリザーブが約3日間でした。当時、時計業界に広まりつつあった週休2日でも止まらないパワーリザーブに対応するためですね。平日にスプリングドライブを載せたグランドセイコーを使い、土日に腕時計を外しても、月曜日にはまだ動いているようにしたかったのです。でも今は、人々の生活や嗜好性の変化により、必ずしも毎日着用するわけではなくなっています。それに対応すべく、たとえ数日開いても止まることのないよう、長持続化を実現させました」

機械式腕時計のパワーリザーブを延ばしたければ、複数の動力ぜんまいをつないで、動力ぜんまいのほどける時間を長くするのが時計業界の定石だ。ふたつの電池を並列につなぐと、2倍長持ちするのと同じ理屈である。今の時計業界で普及しているのは、動力ぜんまいを内蔵した香箱(バレル)という部品をふたつつないだ「ダブルバレル」または「ツインバレル」だ。対してキャリバー9RA系が採用したのは、「デュアルサイズバレル」である。ちょっと変わった名前が示す通り、これはありきたりのダブルバレルとはまったく異なるものだ。

キャリバー9RA2を見ると、ひとつの香箱が小さく、もうひとつは大きいことがわかる。同じ動力ぜんまいをつないで駆動時間を長くする、一般的なロングパワーリザーブとはまったく別物というわけだ。その構造は類を見ないほどユニークだ。ひとつの動力ぜんまいがほどけると、もうひとつの動力ぜんまいが、ほどけた動力ぜんまいを自動的に巻き上げて、駆動時間を延ばすのである。あえてまったく新しい設計を選んだのは、パワーリザーブを延ばしながらも、ケースに収めた状態でのムーブメントサイズを既存のキャリバー9R6系と同等とするため。ふたつのうち、ひとつの動力ぜんまいを小さくできれば、ムーブメントを無駄に大きくせずに済むのだ。

しかし、動力ぜんまいの数が増えると、当然問題も増える。まずは動力ぜんまいのコントロールが難しくなること。機械式時計の動力源である動力ぜんまいは、それぞれの力に微妙なばらつきがある。それがふたつに増えると、さらに動力のムラは大きくなるだろう。しかし、グランドセイコーのスプリングドライブやメカニカルムーブメントが載せる自社製の動力ぜんまいは、個体差がほとんどない。また、約72時間の駆動時間を実現したキャリバー9R6系同様、キャリバー9RA系も、パワーリザーブが一定になるよう、巻き上げを止めた状態で時計の駆動時間が120時間を過ぎると、自動的に止まるようになっている。しかも「真空パッケージIC」によってキャリバー9R6系から精度も向上させている。平谷いわく「せっかくの高精度な腕時計の運針をできるだけ止めないようにすることも、約120時間という持続時間にこだわった理由のひとつです」。

キャリバー9RA系のデュアルサイズバレル

普通のデュアルバレルは、同じサイズの香箱(バレル)をつないで、パワーリザーブを延ばす。対してキャリバー9RA系のデュアルサイズバレルは、大きな第2香箱に内蔵された動力ぜんまいがほどけると、小さな第1香箱の動力ぜんまいがそれをチャージする。歯車が増えると、トルクロスは増えるが、キャリバー9RA系の開発チームは極限まで抵抗を減らした。キャリバー9R6系に比して、約2日間もパワーリザーブを延ばせた理由だ。

もうひとつの問題は、動力ぜんまいを収めた香箱をいくつもつなげると、動力のロスが大きくなることだ。そのため、キャリバー9RA系では、ふたつの香箱の噛み合いを調整することで、無駄なエネルギーロスをぎりぎりまで減らしている。一般的な機械式腕時計ならば、ここまで厳しくトルクロスをコントロールする必要はない。しかし、動力ぜんまいのほどける力で時・分・秒針を回し、発電もし、水晶振動子を振動させ、さらにICを動かし、そこに温度補正機能を加えたキャリバー9RA系の場合、電気的な省電力化だけでなく、物理的なエネルギーロスを減らすことも必須だったのである。

ソフトだけでなく、ハードのロスも減らすことで、かつてない性能を手にした新しいスプリングドライブ。不可能と思われた温度補正機能を加え、さらに約5日間もの長いパワーリザーブを実現したキャリバー9RA5と9RA2は、2004年からグランドセイコーに搭載されてきた9R6系スプリングドライブの究極の進化形なのである。

To be Continued......

SLGA009

SLGA009

[ Grand Seiko
Evolution 9 Collection ]

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世界的に評価の高い“白樺ダイヤル”のグランドセイコー。そこにスプリングドライブのキャリバー9RA2を載せたのが、新しいEvolution 9 Collection SLGA009である。ケースが薄く、時計の重心が低いため装着感も良好だ。自動巻スプリングドライブ(キャリバー9RA2)。38石。パワーリザーブ約120時間(約5日間)。平均月差±10秒(日差±0.5秒相当、気温5℃~35℃において腕に着けた場合)。ステンレススチールケース(直径40mm、厚さ11.8mm)。日常生活用強化防水(10気圧防水)。